[注]この翻訳は、記録管理学会の機関誌『レコード・マネジメント』第57号に収録されたものである。記録管理学会については、以下のURLを参照いただきたい。(http://wwwsoc.nii.ac.jp/rmsj/

 

 

 

 

 

タキシードの世界に茶色の靴:企業アーカイブズとアーカイブズ専門職1)

 

ブルース・H. ブルーマー2)

訳:編集委員会 朝日 崇

 

Brown Shoes in a World of Tuxedos:

corporate archives and the archival profession

 

Bruce H. Bruemmer

Translation: Editorial Board  Takashi ASAHI

 

 

 

 

 私がミネソタ大学の文書管理者として働いていた20年前のこと、ワシントン通りの歩道橋でヒッピー(ホームレス)が通りがかりの学生に卑猥なことばを掛けながらうろついていた。その道は二つのキャンパスを繋ぐ唯一の道であったから、学生はヒッピーを避けることは出来ず、なるべく近寄らないようにしていた。10年が経ち、私は相変わらずその大学に籍をおいていた。あるアーカイブの部署で、書誌管理の挫折感や恐怖感を引き起こさせるような調査からの帰途であった。状況は絶望的でそのワシントン通り橋を歩いていたときなど、極度の物思いにふけり心乱れていた。挫折感に打ちのめされ、私自身卑猥なことばをつぶやいていることに気付かなかった。見上げると、10年前のヒッピーと同じように学生達は、今度は私にたいして距離を置いていることに気付いた。仕事を変えるのは今だ ― 私はそのときこう決心したのだ。

 

 民営の部署のアーカイブズは、常に私の興味を引くところであった。大学にいたときに、Burroughs社とControl Dataの記録を手に入れることが出来た。収集したこれら二つの記録が、消去されBabbage Instituteに渡される前に誠実な企業アーキビストによって表に出されてしまったという事実を知って躊躇してもよかったが、それにもかかわらず、結局Cargillの開設に応募しようと決心した。21世紀問題が世界中で問題なく収束したちょっと後、私は髭を剃って企業のアーキビストになった。

 

 一瞬にして私は16年間という心の重荷を後に切り落とし、アーカイブズの世界に戻ってきて、人が散らかしたものを整理しているのである。しばらくして、友人は私に新しい仕事について聞いてきた。私の返事はこうである。すなわち、大学では、自分に力量がある、と思っている人は全く力を持っていない場合がしばしばである。Cargillでは、力量があると思っている人は、一般的に確かに力を持っている。これは、Cargillの人が大学人よりも必ずしも賢明であるということを意味するものではないにしろ、曖昧さの多くを払拭してくれるものである。政府助成の大学では、ほとんど全ての人はお客様であり、アーカイブズの目的を理解していなくとも、それを守ったり活躍するようにし向ける多くの擁護者がいる。企業での常連利用者は、狭い範囲に限定されていて、アーカイブズがどんな役割を果たすかについて理解しようとする寛容さを持ち合わせていない。Cargillにおいては、(George Gobelの言葉をいただくとして)、タキシードを着る世界で、私自身は茶色の靴を履いているという気持ちであった。私は、ほかの会社のアーカイブズ同業者(従事者)の仕事を知るにつれて、この悩みは私ひとりのものではなかったということに気づく。コカ・コーラ社のPhil Mooneyが述べているように、会社設立に功のある人たちは、彼ら自身精力的な販売促進者であり、事業促進のため、アーカイブズ記録の効用を売り込むどんな機会をも逃さない3)。

 

 私は、企業アーキビストに変身する前も、SAAのビジネスアーカイブ部会にはしょっちゅう出入りしていたものである。ビジネスアーカイブ部会には不満を抱えているものがおり、企業と公共部門との違いを常にはっきり述べるべきだと考えている者がいることに気づいた。彼らの主張は、企業のニーズがちっとも取り込まれていないという軽い不快感というものから、SAAからもう袂を分かとうという声高のものまで多岐にわたっていた。国の専門家グループから別れてしまおうという考えが多くの人の失笑を買う一方で、同じような問題により、政府のアーキビストによって1974年に設立されたNational Association of State Archives and Records Administrators(アーカイブズと記録管理の全米協会)という事例がある(NASARAは、30年を越す中ではじめて共同会合を持つことになっている)。分離を説明するにあたって、Bruce Dearstyneは、SAAとARMAがアーカイブズとレコードマネジメントについて議論する場を設けなかったことに言及しており、政府のアーキビストは、「自分達の立てたプログラムは、政府で設定したが故に普遍性を持っており、そのことで他のアーカイブズプログラムとは違うという特性があると信じていた」のである。一般的にビジネスアーキビストは、同僚と同じ言葉で話しているが、アーカイブズのほとんどすべての機能面において、その専門の手法の展開ということになると、不満が残ってしまう。ある優秀な企業アーキビストは最近こんな不満を口にしている。「我々は、対象に別々に近づいている。我々は顧客に別々の情報を伝えている。我々は別々に予算を立てる。我々の生かしている資料は大変異なっている。我々の管理規則は異なっている。我々の雇用の慣例と昇進方策は違う。利用拠点の拠り所は違う。組織構造も異なる。……資料にどのようにアクセスするかの指針も違う。館も違う。アーキビストに期待されるスキルも違う」4)

 

 異なる部門のアーカイブズには、知の面で超えられない溝があるのだろうか、あるいは単に違いを強調しているだけなのだろうか。民間部門のアーカイブズに入ってみると、多くの基本的領域において、学術的アプローチとビジネス的アプローチの相違が痛いほど分かってきた。近々出す論文では六つの領域における特異性つまり、過程、記述、評価、歴史に関係するアーカイブズさらに企業アーカイブズが置かれている厳しい環境などを考察する領域においてその特異性を述べてみる。ここではその二つを論じてみよう。

第一 その使命

 親組織の使命を無視してはどのアーカイブズも生き残れない、ということではあるにしても、公共部門においては、このような組織の目的は、広範な領域の活動を援護するために広い範囲に及んでいる。領域とはすなわち、学術調査、公共の関心、政府情報への公的アクセスである。最終的にこのようなアーカイブズは、公共、大学のコミュニティー、そして/あるいは納税者に責任を負っているのである。

 

 Calvin Coolidgeの言葉を言い換えるならば、米国の企業アーカイブズの主たる職務は、商売することである。最終的には、企業アーカイブズは株主に責任を負うのであって、株主の主たる関心は自分の投資金を増やすことである。株主が会社の他の面(社会参加、環境問題への責任、慈善寄付)に価値を置くとしても、一番の関心事は財務のことである。企業アーカイブズはいろいろな視点からその存在が正当化されるのであるが、収益額に貢献できれば生き残れる可能性がずっと確実なものになる。より多くの企業アーカイブズがこれらの目的を遂行することを期待されているのである。1990年代、AT&T社のアーカイブズはそのサービスに対する収入によってまさに存在できていたのだ。コカ・コーラ社のアーカイブズは、数百万ドルにも上る遺産を稼ぎ出す商標ビジネスを主な職務だと断言している。Cargillのように多くの企業アーカイブズは、前年の接客と産出物に基づく総額を見て、その年の接客レベルの合意がなされるのである。公共アーカイブズで、どれだけがこのような条件で自分たちの計画を決めろ、と言われているであろうか。

 

 これらの事例は、ビジネスという言葉で、自分たちのビジネスへの価値を表明するアーカイブズの成果である。まさに企業アーキビストは、アーカイブズ計画に資金を提供してくれる人に対して、どうしたらもっと意義深くアーカイブズの価値を効果的に語れるかという自分たちの能力の如何を論じてきたのである。多くの点において、アーカイブズ専門家の従来の視点は、経営計画の旗振り役では決してないということである。Gordon Rabchuleは、こういっている。「ビジネスにおけるアーカイブズの典型的理解は、多くは否定的なものである。その主な理由は、たとえ現代ビジネスの活動力を兼ね備えているにしても、我々が殆ど宣伝もしない陳腐な商品を売ってきたからである」5)。たぶん世界が完全であるならば、経営幹部のなかには、米国ビジネス社会の4半期から4半期という決算下においても、過去から学ぼうと目を凝らしている者もいるであろう。いずれにせよ、戦略的な過去を示すことは、とてつもなく起業家的(アントレプレナー的)であり、ある種のリスクを背負い込むことに慣れている有能なアーキビストでなければ出来ない相談であろう。

 

 たぶん、多くの公共アーキビストは、企業アーキビストの使命に対して、あまり快く思っていないであろう。なぜ宗教アーカイブズが、他の専門アーカイブズと違う様相を見せるのかという分析において、Jim O’Tooleは、国家と宗教の間のアメリカでの緊迫を述べており、またアーカイブズの専門職において、いかにその緊迫が展開しているかについて言及している。彼はこう書く。「宗教理解を個人の問題と考え、個人の活動の限られた範囲のものとするならば、特殊な宗教団体のアーカイブズに触れることはせいぜいよくて異様なものであり、悪く言えば疑ってかかるべきものである」と。企業アーカイブズと宗教アーカイブズを比べること自体とんでもないと思われるかもしれないが、この二つは、忠誠と献身という問題を提起している。アーカイブズの専門家精神と資本ビジネスの目的とが交叉するときがあるのだろうか。他の専門家はこの緊張関係をどう見ているのだろうか。Richard Coxは、専門性ということを分析して、制度化された利他主義と指摘している。Coxはこのような特性を、アーキビストの「歴史記録を公にすることの恒久的な欲求」と定義している。この欲求が、企業アーキビストや宗教アーキビストと、公には記録を閉ざしている他のアーキビストとを、専門家同士としてちょっとした絆で結びつけてくれる6)。私にとって永久に閉ざされているものは何もないのだ。すなわち、記録というのは、企業のそれでさえも、自分を生んでくれた外で生きる術を持っているのである。しかし、多くの仲間は、「アクセス?君が生きている間にはないよ」と言うとそれを理解出来ないのである。

第二 より大きな目的のために

 たぶん、企業アーキビストと他のアーカイブズ専門家との間を隔てる原因を作っている一番大きな問題というのは、企業アーキビストが社会のもっと大きな利益のために働いているのではない、という考えがあるからである。このことは、最近、American Archivistの表紙を飾った、Sun Mad Raisin(娘のMaidを気の狂ったMadに変えている)が論戦の対象になった、ということで見て取れる。多くの企業アーキビストが(私も含めて)、その表紙に公然とした反商業主義のにおいを感じて抗議の手紙を書いた。確かに、そのポスターは、記事の一つを反映していたが、表紙それ自体は、American Archivistがどういう立場をとっているかを反映したものなのだ。ビジネス部門で働く人は、Milling and Baking Newsのカバーのなかに、American Archivistを隠さねばならないと感じたのである。こんな否定的な描写が表紙に使われたことなどかつてなかったことである。何の目的のためであろうか?もっと雑誌を売るためであろうか?

 

 企業アーキビストは、Mother Jonesに似たAmerican Archivistなくして、資本主義組織の下でアーカイブズを主張するには大きな困難を抱えていると感じていた。これは根本的に販売術の問題であって、検閲の問題ではない。表紙は内容の文脈上適正であると考える人もおり、企業アーキビストはせいぜい敏感な程度で、最悪の場合でも雑誌の編集権に圧力をかけるくらいである。Richard Coxは、企業で働くすべてのアーカイブズ専門家に対して、職業倫理について直接尋ねた折、驚くべき方向へとこの議論をふくらませたのである。氏は、編集者への手紙にこう書いている。「私が興味があるのは、アーキビストあるいはレコードマネジャーとしての個人の機能というものが、専門家の倫理や使命を守りながら、企業環境の下で現実的な方法で働くことができるのか、ということにある」。Coxはさらに、タバコ会社のレコードマネジャーの役割について聞かれた折や、「雇用主の側に違法な行動や問題のある行動」を見つけたときの企業アーキビストの対応について詳細に述べている。Coxは、ささいなことで大騒ぎするようなことだと、この表紙問題に全焦点をあてるのを避けている。曰く「特異な政治的な意図のポスターの使用について、協会がどうして大仰に関心を持つのか、それは専門家として我々が向けるべき関心事から大きくはずれている」

 

 Coxはまた、腹痛の別の原因として、おそらく盲腸炎と診断するであろうことは疑いがない。「Raisingate」(先のSAA代表のTim Ericsonが名付けた言葉)は、私的なアーキビストと公的なアーキビストがお互いに対して異なった認識を持っていることを示すものであった、というのが本当のところであろう。表紙が出たとき殆どの企業アーキビストはそれを見て、SAAには、Sun Maid Raisin社のアーキビストがいるのだろうか、そしてまさに同志を失ってしまったのではないだろうか、と思ったのであった。彼らが次に考えたことは、どのくらい深く考えてその雑誌に経営者に批判的な絵柄を掲載することにしたのであろうか、ということであった。多くのアーキビストは、Philip Ashdownの味方をしたことであろう。Philipは、編集者への手紙において、仲間としてではなく、「企業の代弁者」として表紙に批判的な企業アーキビストのことを述べていた。彼は物議を醸し出す作品を使ったことを讃え、「記録遺産の偏りのない保存」を目指すアーカイブズの専門職を力説した。私にとっては、私的部門における5年間のアーカイブズ職への従事と、公的部門の20年間の経験からも、Raisingateとは、企業アーキビストの使命や、より大きく社会のために貢献することにおいて、他のアーキビストと共に考えるべき問題であることを会得させてくれた事柄だった。

 

 「お互いの組織や使命を尊重する」という倫理的な主張がある一方で、自分の社会的責任を説明する専門家としての倫理表明がないのも事実である。カナダの規約では、アーキビストの仕事というのは、「アーカイブズの現在の利用また将来の世代に便を供すること」となっている。現在の利用者というものを、従業員や顧客そしてビジネスの共同体として規定すると、上記の考えについてつまらぬ議論をするアーキビストはいないであろう。しかし、現在の利用者が単に一般大衆とするならば、専門職はただちに、ただの代弁者に成り下がってしまうのではないだろうか。

 

 アーカイブズによって提供される、より目に見える大きな便宜は、公共のアクセスに限定されるものではなく、公を守ることでもある。Coxの質問は、「雇用者の違法な行動や問題のある行動を見つけた時に、アーキビストはどう行動すべきか」ということである。この質問は暗に、企業のアーキビストにとっては、どういう態度をとったらいいのかの葛藤を引き起こすことを示している。まず第一に、Coxが提起したい明白な問題がある。つまり、アーキビストの、公は犠牲にしても企業への文字通りの忠誠心という問題である。第二は、単純に言って、違法行為を認識する能力と知識という問題である。会計士や弁護士でもあったりするアーキビストというのはほとんどいない。では、どのようにして企業アーキビストは、告発者の列に入り込めるのか、あるいはこの役割はアーキビストであることの重要な役割なのだろうか? SAAの倫理規定は7)、この点に関して、笑止というべきであろう。なぜならば「アーキビストは、すべての連邦、州そして地方の法律を守るべきだ」と規定しているのだから7)。Connecticut Aveを通る時の信号無視に気をつけよう! アーキビストがエンロン事件の痛手から世界を救うことが出来ていた、とでもいうのだろうか。いや、違う。公を守る、ということがすなわち企業アーキビストを倫理感欠如にさせる特質であるならば、学校機関に勤めるアーキビストでさえ、自分の席で居心地悪くもじもじするのも尤もであろう。

 

 ビジネスアーカイブズ部門は、不満を言う分子の円卓なのか、それとも自分たちの職業に大いに不満を持っているのか。いかにしてこのような状況に至ったのかは別として、評判のよい企業アーキビストが、北米において一番大きな専門家集団を見て、「そこには私の求めるものはなにもない」と述べるのを聞いて私は不安を感じている。

 企業アーキビストが州や地方政府のアーキビストと同じくらいの大きな集団とはとてもいえないが、彼らが抱く不満はDearstyneによって書かれた不満というものにも似ている。やる気がなくすだけの、十分な理由があるのだ。危機的な問題というのは、専門家の意思のことである。他のアーキビストにとって、同僚の企業アーキビストの仕事が、《国家の歴史記録の識別や保存や利用》の蚊帳の外に置かれていると本当に感じられるならば、いまこそおそらく、企業アーキビストが独立を宣言すべき、まさにその時であろう。これは恥とでもいうべきものである。おとり(雇われの遊び人)や代弁者ではなく、企業アーキビストは、国の記録をつける最前線に立っているのだ。公的な保管場所には利用性に富んだビジネスのコレクションがあるが、企業内部からの記録の視点に匹敵するようなものはない。そしてこれらの記録の視座はますます類い稀で貴重なものになりつつある。たしかに、これらの記録の多くは公には利用できないものであるのだが、アーキビストは過去の出来事に触れる専門家であるので、長い目でものを見ることが出来るであろうと誰しも思うであろう。

 

 最後にもう一考察しよう。企業アーキビストは、自分たちの存在が会社のリスクを増大させてしまうのではないことを、厳しい内省のなかで説明しなければならない、ということである。アーキビストのなかには、法務の下に属している者もいるが、多くのアーキビストはそうではないし、むしろ法務からは警戒されたり疑いの目で見られているのである。アーキビストは言う。証拠というのは、両刃の剣である。すなわち、記録というのは、犯罪の決定的証拠を隠すことが出来るという一面と、一方で[証拠を出すことによって]会社を守る時にも使われる。この格好の事例は、フォード本社が、ナチス時代にFord―Werke社によって利益を得たということを申し立てた際の、フォード社の公開性に認められる。フォード社は、書類を開示して、調査チームを任命した。その活動には関係していなかったコンサルタントのSimon Reichは、「フォード社のDearborn氏の経営については、なんら共謀は認められない」という事実を見つけ出し、その調査は、もっともデリケートな問題と見なされる「企業の社会的責任」という規範を受け入れ、かつ実行した会社の信頼に値する事例であると付言した8)。

 

 それほどではないにしても幾らかの安心を与えてくれる例は他にもある。2002年、シカゴ市が、当市とビジネスをしたいと望む企業は「過去においてアフリカとアメリカの奴隷貿易に関わっていたことを開示する」ように要求する法令を通過させた9)。JPモルガン・チェース銀行は、ルイジアナにある2つの旧銀行に支払い遅延の担保として奴隷がリストに挙げられているのを発見した。その銀行は、情報を開示し、奴隷貿易に関わっていたことを2004年に謝罪したのである。開示を巡る訴訟が未だ終わっていなかったにもかかわらず、賠償への感情は抜きにしても、企業の合併によって、良質の歴史資料を集めることにより起こりうる影響を考えると気が滅入る。企業アーキビストにとって、企業買収の最中に、適正な時と場所を得るというのは大変難しいことである。保存を主張するのは我々しかいないことが往々にしてあるのだ。合併の記録を保有することで、社会が企業を罰するのなら、過去の栄光と醜さを理解する鍵としての記録は、消えてしまうに違いない。フォード社のような立証のためには、他社のためにアーカイブを維持することは大きなリスクを背負うことになる。企業法務家はどんなシナリオを思い浮かべるのか。

 

 ここで、再びRaisingateの核心に戻ることになる。企業が無益なリスクを伴うアーカイブズには助けを求めないという環境下では、Sun Madの表紙を入れたAmerican Archivistの行為は、必要なものではなかったと思う。アーカイブズの存在というのは、企業の社会的責任を積極的に示すもので単なるコンプライアンス以上のものであり、一般的に大企業には疑いの目を向けている社会において、計算されるリスクを背負っているといえるであろう。Coxが、企業アーキビストとレコードマネジャーの足元に公的な説明責任を投げかけてはいるが、説明責任(accountability)と職責(responsibility)の違いを氏は説明してはいない。Michael Mossは、Sun Mad Raisinの表紙に関して、この領域区分を主張し、組織は監査要求によって規定された記録を保持するように要求される「監査文化」の影響を受けているが、必ずしも集合記憶には寄与していない、と述べている。MossがSun Madの姿を企業の監査文化における記録のメタファーと認識する一方で、公的部門への影響を正確に判断の基礎としている。Mossは、Vern Harrisが南アメリカの真実と和解宣言に対して非難したことを引き合いに出して書いている。「当局には法的責任を負うように、あるいはデリダの言葉を借りるならば、忘れてしまうように求める責任はいうまでもなく、ないのである」。公的部門のアーキビストは、雇い主への説明責任や職責、サービスと公共のためのサービスとの間のこの緊張関係が結局は自分達に跳ね返ってくる、ということを肝に銘ずべきである。

 

 企業アーキビストは、経営者に対して付加価値をつける方法を、創意に富んだ方法で追い求めているので、この緊張に気づいているのである。アーキビストの多くはアーカイブズを守るために、価値のある道具とプログラムを用意している。恐ろしいのは、問題の核心を忘れ、それを遠くに追いやってしまうことである。「コンプライアンス」とは、記録管理の部分において、アーキビストにとっては力強い道具ではあるが、ある種危険を伴うものである。なぜなら、コンプライアンスというのは、実際に何が起こったかを説明する記録に制限をかけることがないかもしれないからである。つまり説明責任と職責が対立してしまうのである。このことはすべてのアーキビストが議論しなければならないことである。高い教養を動員して取り組まねばならない難しい問題である。しかし、「だれがこの国で純粋な専門家であるのか」を決定するのは、この論文の意図するところではない。SAAの会長演説のなかで、William Maherは、真正な記録を我々が共通して持っているものとみなし、専門アーキビスト集団を規定する核心は何なのか、ということを表現しようとした。けれども不幸なことに、氏は娯楽産業へと転じてしまい、そのことを企業アーキビストの多くが、ビジネスアーカイブズへの攻撃(わたしはこれは誤っていると信じているが)として受け取った。またもや、あわれなレーズン娘と同様になってしまうのである。American Archivistの編集者は、おおいに興味をそそる表紙と思ったのである。企業アーキビストはその表紙を組織侮辱であると解釈した。Ashdownは、彼らの手紙を検閲主義と解釈し、Coxは、それを彼らの倫理を問うことに使った。Mossは、その質問を監査文化のなかにおける記録を問うことに使った。そして現在我々は、耳を傾ける者が誰かいるのだろうか、という重大な局面にいる。

 

 問題は、我々の社会にある広範囲な記録の将来像のことである。このことで、現代の企業内において、遺産を保存しているアーキビストを離して考えることなど想像できない。心躍る組織であり、賢明で影響力のある人に満ちており、大きなこともちょっと面目ないことも出来る人々である。社会への影響は甚大である。4半期毎に最低ラインが計算される、そういう環境でアーカイブズが正当化されるということは並大抵のことではない。おそらく企業アーキビストは、企業のタキシードという世界で、茶色の靴を履いたままでいることであろう。企業アーキビストは、アーカイブズ理念のフォーラムに、援助と創造性を期待しているが、私は茶色の靴がここでも場違いにならないことを希望するものである。

 

注・参考文献

1)この論文は、ワシントンDCでの、NAGARA、CoSA、SAAの2006年合同大会にて発表されたものである。2007年に、Terry Cookが編者にて刊行予定の、Documenting Society and Instistutions, Essays in Honor of Helen Samuelsに載る1章の要約版である。

2)Bruce Bruemmerは、Cargill社のアーカイブズ部門の役員である。Cargill社は、ミネソタ州のMinneapolis, MNに本部を置く食糧と農産物やリスクマネジメントの製品やサービスの世界的商社である。氏は、政府部門、学術部門、そしてビジネス部門に25年以上アーキビストとして勤め、SAAのフェローでもある。

3)Gord Rabchuk, “Life After the “Big Bang”: Business Archives in the Era of Disorder” in American Archivist 60: 1 (Winter 1997) p 39. Phillip F. Mooney, “Archival Mythology and Corporate Reality: A Potential Powder Keg” in James M. O’Toole (ed.) The Records of American Business (Chicago: Society of American Archivists, 1997) p 62.

4)Email from Edward Rider to the Corporate Archives Forum, January 25, 2006. Used with permission.

5)Rabchuk, 41.

6)James O’Toole, “What’s Different about Religious Archives?” Midwestern Archivist 9: 2 (1984) 99. Richard J. Cox “Professionalism and Archivists” American Archivist 49: 3 (Summer 1986) 223.

7)2005年SAA出版の「アーキビストの倫理規定」における第9条

 興味深いことに、わたしの勤めるCargill社は、わたしに、Guiding Principlesについての年次報告にサインするように求めた。そこには、企業は、「その属する国の法律に従う」という誓約も入っている。同じような報告書にいったい何人の学術アーキビストや政府アーキビストがサインしなければならないのであろうか。

8)Simon Reich, Ford’s Research Efforts in Assessing the Activities of its Subsidiary in Nazi Germany (Dearborn: The Ford Motor Company, 2001) 7―8.

9)Jonathan Swisher, “Chicago’s Belated Fight Against Slavery,” in Northwestern Chronicle, posted 24 October 2002.